2025/12/08
私はこれまで、「営業」という一本の軸を持ちながら、
意図的に、異なる世界へと身を置き続けてきました。
客観的に見れば、「転職の多い人」だと思われても仕方がない経歴です。
けれど私の中では、リクルートにいる頃からずっと、
「いつか必ず、自分の手で道を切り拓く」と、静かに決めていました。
どの仕事も中途半端に終わらせたことはありません。
むしろ、その世界に全力で飛び込み、
二年目に入るころには、気づけば自然と「中堅」としての役割を担う立場にいることが多かったのです。
できることのすべてをやり尽くしてきたと、胸を張って言えます。
むしろ、その世界を短い時間の中で深く理解し、自分の中にすべてを落とし込み、
この場所では、これ以上の成長が望めないと感じた時、
あるいは、経験を重ねていく中で、これまで見えていなかったものが見えるようになり、「自分の大切にしたい在り方と、どうしても重ならない」と感じたとき、
その度に私は、次の世界へと進んできました。
それは決して「逃げ」ではなく、
自分の心に嘘をつきたくない。
そして、自分の可能性を信じ、広げ続けたい。自分の人生に責任を持ちたい。
そんな、ただ自分の心の声に、正直であり続けようとした結果だったのだと思います。
いったん築き上げたものを手放し、またゼロから始める。
その繰り返しの中で、気づけば私は、ただ「多くの人」と出会ったのではなく、
社会のあらゆる層に生きる人々と、直接言葉を交わし、向き合ってきました。
たくさんの人の人生と、たくさんの「在り方」に――。
ひとつの世界の中ではなく、
本来なら交わることのないほど異なる世界を生きる人々の間で。
求職者の方々。
企業の人事担当者や、それぞれの部署の責任者。
中小企業を守る社長たち。
株や信用取引の世界に身を置く人たち。
メガバンクや信託銀行で、法人の不動産に関わる意思決定の現場にいた方々。
そして、ある会員制の特別な世界に関わる中で出会った、富裕層の方々……。
業種も、立場も、生き方も、まったく異なる人たち。
けれど私は、その一人ひとりの人生の扉を、ほんの一瞬だけでも、そっと覗かせてもらってきたように思うのです。
今、こうして振り返ってみて思うのは、
これほど多岐にわたる業界を渡り歩き、これほど多くの異なる層の人々と向き合ってきた人間は、ほとんどいないということです。
そして、それこそが私の最大の強みであり、
その経験のすべてが血となり肉となって、今の経営者としての私を支えてくれているのです。
けれど、最初から「営業がやりたくて」この世界に入ったわけではありません。
むしろ新卒の頃の私は、数字に追われる営業という仕事に、正直少し引いている部分さえありました。
ある日、四つ年上の先輩に、ぽつりと愚痴のように言ったことがあります。
「営業って、本当に大変ですよね。
数字にも追われるし、しんどい仕事ですよね……」
すると、その先輩は、思いもよらない言葉を返してきました。
「営業ってな、人生でたくさんの人に出会える仕事なんやで。
結局、人生って“どれだけ多くの人に出会えたか”やと思うねん。
そう考えたら、営業ほど素晴らしい仕事ないで。」
その言葉は、不思議なほどまっすぐに、私の心に落ちてきました。
人生は、どれだけ多くの人に出会えたか。
その視点で考えれば、たしかに営業という仕事は、
私を驚くほど豊かな世界へと連れていってくれたのかもしれません。
そして、その中でも――
私の心に特に深く刻まれているのは、
ある会員制の特別な世界に関わる中で出会った方々です。
なぜならその人たちには、はっきりとした、いくつかの共通点があったからです。
それは、
驚くほど「空間」と「心」と「思考」が整っていたということ。
住まいが整い、
心が澄み、
静かで、迷いのない思考がそこに宿っていました。
そのとき私は、はじめてはっきりと感じたのです。
「部屋を整えるということは、在り方を整えるということなのかもしれない」
──と。
そして今、
12月という「整える季節」を迎え、
あの日々の記憶が、あらためて私の中で静かに目を覚ましているのです。
第1章
整っていたのは、心と思考だった
ある会員制の特別な世界に関わる仕事の中で、当時出会ったのは、
私の親の世代よりも、少し上の世代にあたる方たちで、いわゆる富裕層の方々です。
けれど、私の記憶に強く残っているのは、
「お金」や「肩書き」ではありません。
それは、どの住まいも驚くほど清らかに整えられていたということ。
そして、初対面の私に対してでさえ、
まるで身内のように、温かく迎えてくださったということでした。
丁寧に用意されたお茶とお菓子。
やわらかな笑顔。
静かで、深いまなざし。
年齢でいえば、六十代から七十代くらいの方が多かったように思いますが、
その心のあり方は、年齢や肩書きを超えて、
驚くほど澄みきっていて、優しく、そしてピュアでした。
そしてもうひとつ、強く感じたことがあります。
それは、彼らにとって「与えること」が、あまりにも自然だったということです。
特別なことをしているという自覚もなく、見返りを求める様子もなく、
ただ、ごく当たり前のように、そっと差し出される優しさ。
その姿に、私は「本当の豊かさ」というものを、はじめて目の前で見たような気がしました。
そんな中で、私の心に今も深く残っている、いくつかのエピソードがあります。
ここからは、そのうちの四つを、少しだけお届けします。
① まるで宮殿のような、高台のご自宅
ある日、私は高台にある、とても大きなご自宅へ伺いました。
そこは、関西屈指といわれる高級住宅地に佇む邸宅で、
これまで数えきれないほどの豪邸を目にしてきた私でさえ、
思わず言葉を失ってしまうほどの広さと美しさでした。
それほどの大豪邸であるにもかかわらず、室内はどこもかしこも綺麗に整えられ、塵ひとつ見当たりません。
大きな窓からは、遠くの市街地まで一望できる景色が広がり、
上質なお茶菓子とともに静かな時間が流れていました。
けれど、不思議と感じたのは「豪華さ」よりも、「静けさ」と「温かさ」でした。
そんな中、ふとした会話の流れで、私の地元の話になりました。
すると奥様が、少し懐かしそうに微笑みながら、こうおっしゃったのです。
「主人の転勤で、何年か住んでいたことがあるんです。
あの頃に食べた、あの素朴なお菓子が、今でも忘れられなくてね。」
それは、誰もが知る高級菓子ではありません。
どこにでもありそうな、素朴であたたかみのある、庶民的なお菓子でした。
私は、その言葉に胸を打たれました。
飾らない言葉。
気取りのない態度。
これほど恵まれた環境にいながら、そんな何気ないものを心から「好き」と言えるその在り方にこそ、本当の品格があり、
そして「整っていたのは、家ではなく、心だった」のだと、そのとき静かに教えられた気がしたのです。
② ケーキ作りが趣味になった、70代の男性
最初にそのお宅を訪ねたとき、玄関で迎えてくれたのは、70代のご夫婦でした。
リビングに通されると、テーブルの上には手作りのケーキがそっと置かれていました。
「最近、ケーキ作りを始めてね」
そう、少し照れたように話してくれたのは、かつて製薬会社で働いていたというご主人でした。
もちろん、売り物のように完璧な見た目ではありません。
けれど、不思議なほど温かく、ひと口ごとに、ゆっくりと心に沁みてくる味だったのです。
私が「とても美味しいですね」と心から伝えると、それからというもの、訪問するたびに違う種類のケーキを用意してくださるようになりました。
キャロットケーキの日もあれば、フルーツがたっぷり乗ったケーキの日もあり、素朴でやさしいケーキが並びました。
その隣で奥様は、特に言葉を添えるでもなく、ただ静かに微笑みながらその姿を温かく見守っておられました。
そこにあったのは、いわゆる「豊かさ」ではなく、
誰かのために時間を使うことを心から楽しんでいる人の、純粋な優しさだったのだと思います。
③ 家族の輪の中に、自然と迎え入れてくれた女性
その女性は、60代のとてもアクティブで、チャーミングな女性でした。
社交ダンス、水泳、テニス……どれも趣味の域を超えており、
コーチをつけて本格的に取り組んでいる姿に、私はただただ感心するばかりでした。
年齢という枠に縛られず、「本気で自分の人生を楽しんでいる」その姿は、とても眩しく、そして美しく感じられました。
その日も、いつものように話が弾み、気がつけば夕方になっていました。
そろそろ帰ろうとすると、彼女は当たり前のように、
「夕食、食べていきなさいよ。」
と声をかけてくれたのです。
やがてご主人様が帰宅され、娘さん、そしてご主人のご両親も集まり、気づけば私は、三世代がそろうご家族の輪の中に自然と迎え入れられていました。
奥様の手料理の揚げたてのおいしい天ぷらが食卓に並び、みんなで笑いながら食卓を囲みました。
それはもう、「営業の時間」という感覚ではありませんでした。
まるで、ずっと前から知っていた家族の一員のように、何の違和感もなく、その場に溶け込んでいたのです。
ただの営業担当であるはずの私に、ここまで心を開いてくださる人たちがいる――。
その事実が、胸の奥をあたたかく満たしてくれました。
あの日の私は、心の底から思ったのです。
「こんなに幸せなことって、あるんだな」と。
④ 品格を体現していた、元メガバンクの銀行マンのご主人
最後にもうひとつ、どうしても忘れられないご夫妻がいます。
元メガバンクで第一線を歩まれてきた、とても紳士的なご主人と、
明るく朗らかな笑顔の奥様。
威圧感はまったくなく、けれど、その佇まいからは自然と伝わってくる「品格」がありました。
ご主人は穏やかで、謙虚で、何よりも奥様をとても大切にされていることが、その仕草や言葉の端々から伝わってきました。
そして、不思議なことに、私に対しても――
まるで「大切な客人」であるかのように、常に丁寧に、敬意をもって接してくださったのです。
帰り際、ご主人はごく自然な所作で、お茶菓子をひとつひとつ丁寧に包み、そっと、私の手に持たせてくれました。
そのさりげない所作と気遣いの美しさ。
そして本来なら女性がするようなその仕草を、元メガバンクというキャリアを歩んできたご主人が、ごく自然に行っていたことに、私は深い衝撃を受けました。
「整っていたのは、心と思考だった」
そしてもうひとつ、共通点があります。
それは、多くの方々が、驚くほど決断が早いということです。
それは、自分の感覚を信じているという証であり、
「悩む時間=コスト」であることを、自然と理解しているということ。
そして何より、完璧を求めすぎない潔さと、迷いのなさ。
それは、空間や心だけでなく、思考そのものが整っているからこそ、生まれるものなのかもしれません。
迷い続けるよりも、まず一歩を踏み出すことの尊さを、
人生の中で、すでに体得しているように感じたのです。
そしてその在り方の根底には、
驚くほど深く、静かな「優しさ」が流れていました。
こうして振り返ってみると、私が出会ってきた方々に共通していたのは、
「どれだけ持っているか」でも、「どれだけすごいか」でもありませんでした。
それは、自分の空間を大切にし、自分の心と丁寧に向き合っているかという、
とてもシンプルで、けれど難しい在り方でした。
お金があるから家が整っていたのではなく、
心と思考の両方が整っているからこそ、空間にもそれが表れていた――。
私は、そう感じています。
完璧である必要はありません。
完璧な暮らしも、完璧な人生も、誰にも用意されていないのだから。
けれど、もし今日、ほんの少しだけ身の回りに目を向けてみることができたなら。
机の上を少しだけ、片付ける。
キッチンや洗面台など水回りを、ちょっとでも磨いてみる。
着なくなった服を一つでも、処分してみる。
自分にかける言葉を、少しだけやさしくしてみる。
それだけでももう、「整える」という一歩は始まっているのだと思います。
この12月という、少しだけ立ち止まりたくなる季節に。
ご自分の空間を、ご自分の心を、ほんの少しだけ整えてみてはいかがでしょうか?
きっとその先に、あなただけの「静かな豊かさ」が待っているはずです。
第2章
歩くことで、私は自分に戻っていく
私は昔から、じっとしていることが得意ではありません。
一定の場所に留まり続けていると、
どこか心と身体の奥が、少しずつ重くなっていくのを感じるのです。
私の一番の気分転換は、外へ出て散歩をすること。
足を前へ、前へと運ばせることで、
止まっていた何かが、またゆっくりと動き出す気がするのです。
散歩は私にとって、ただの「運動」ではありません。
それは、内側に溜まってしまった感情や思考、
見えない疲れや、停滞したエネルギーを、そっとほどいてくれる時間でもあります。
外の空気を吸い、空を見上げ、風を感じる。
ただそれだけのことなのに、不思議と心は整い、頭は澄み、
深いところで静けさが戻ってくる。
そして、そんなふうに歩いているときほど、不思議なことが起こります。
「どうしたらいいんだろう」
「次は、どう進めばいいのだろう」
ずっと抱えていた問いの答えが、ふいに突然浮かんでくることも多々あります。
営業のアイデアや、問題の解決策。
言葉にできなかった想い。
それらが、歩くリズムの中で自然と整い、形をとりはじめる。
まるで、身体が先に答えを知っていて、
それを思い出させてくれているような、不思議な感覚です。
そんなある日のことでした。
私は自然の中を、ただ静かに歩いていました。
すると、風に揺られる白くて小さな花が、ふと目に留まったのです。
それは、スズランでした。
控えめで、けれど凛として、美しく、静かに咲いている花。
風にゆらゆらと揺れながら、まるで歌っているかのように。
「かわいいな…」
ただそれだけの想いが、胸いっぱいに広がりました。
一瞬、じっとその場に立ち尽くし、スズランの花に惹きつけられました。
そして不思議なことに、その記憶は、そのまま私の中に残り続けました。
あれから数年後の今年3月末。
会社設立の準備を進める中で、司法書士の先生から、
「会社名を教えてください」
と言われました。
私は、考える余裕もなく、正直、まだ何も考えていませんでした。
けれどそのとき、不思議なほど迷いなく、その名前が浮かんだのです。
――スズラン不動産。
何の計算もありません。
ただ、あの日、風に揺れていたスズランの姿が、ふわりとよみがえっただけ。
でも、なぜか「これだ」と心が知っていました。
考え抜いて選んだ名前ではなく、
整った心の奥から、自然とこぼれ落ちた名前でした。
今思えば、それはきっと、
「動いたからこそ、受け取れた答え」
だったのだと思います。
もし今、何かに悩んでいたり、心が少し重たくなっていたり、
「なんだか停滞しているな」と感じているなら――。
ほんの少しでいいので、外に出て、歩いてみる。
たったそれだけで、少し抱えているものが軽くなる可能性があります。
自然の中でなくても構いません。
家の近くで、いつもとは違う、通ったことのない道を、少しだけ歩いてみる。
すると、これまで気づかなかったお店、景色、人の気配に出会うかもしれません。
そして、もし気になるお店があったなら、勇気を出して、ふらりと立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
その何気ない一歩が、あなたの世界を、少しだけ広げてくれるかもしれないからです。
歩くことは、前へ進むことだけではありません。
それは時に、自分との対話の時間であり、
そして、自分自身に戻るための、小さくて大切なひとときなのだと、私は感じています。
第3章
不安の正体と本当の安心がある場所
人はなぜ、こんなにも不安になるのだろう。
不安は、弱さの証でも、心の欠陥でもない。
それは、人間が生き延びるために備わった「本能」から生まれているものだという。
かつて人は、獣や飢えや敵から身を守るために、
常に周囲に警戒心を向けて生きていた。
だから脳は、「安心」を探すよりも先に、「危険」を探すようにできている。
でも現代に生きる私たちの不安は、獣でも、敵でもない。
将来が見えないこと
お金のこと
老後のこと
人間関係
健康
比較
失敗
社会に取り残されるかもしれないという恐れ。
そのほとんどが、目には見えないもので、答えもなく、終わりもない。
だから人は、ずっと心を緊張させたまま生きてしまう。
けれど、もっと深いところにある“不安の正体”は、きっとこうだと思う。
「本当の自分から、少しずつ離れてしまっていること」
自分の心をごまかし続ける。
違和感にふたをする。
「こうあるべき」という形に、自分を押し込める。
そうやって生きていると、理由のわからない不安が、静かに広がっていく。
私は、昔から自分に嘘がつけない、ある意味、不器用な人間で、何度も環境を変えてきた。
転職も、人から見れば多かったかもしれない。
けれどそれは、逃げではなく、自分の声を聞こうとした結果だった。
怖くても、「ここじゃない」と思った場所からは、迷いなく離れた。
そしてそのたびに、新しい学びと、新しい感覚を持ち帰ってきた。
そうして不思議と、すべてが一本の線につながりはじめた。
人材、金融、不動産、経営の視点、営業力、本質を見抜く力、物事を俯瞰する力、
決断力。
ばらばらに見えた経験は、今という場所で一つに結ばれている。
何かに本気で向き合っているとき、人は“今”を生きています。
そして、不安というのは、“今”ではなく、“まだ起きていない未来”に生まれるもの。
だから、不安に呑まれてしまうのではなく、
自分の人生に、もう一度「集中」すること。
それだけで、世界は静かに変わっていくのかもしれません。
ある日、ふとお茶をいれているときに気づいた。
今、こうしてブログを書いているこの時間もまた、
私にとっては「思考を整える大切なひととき」なのだと。
お茶をいれる時間は、私にとって、
“モンキーマインド”――
頭の中で絶え間なく騒ぎ立てる雑念や焦りが、すっと静かになっていく瞬間です。
お湯の音、茶葉の香り、湯気の流れ。
その一つひとつに意識を向けていると、心がゆっくり整い、
外側ではなく “内側の声” に戻ってこられる。
忙しい時こそ、私はお茶を飲み、自分に静けさを取り戻すようにしています。
私にとってお茶は、ただの飲み物ではなく、
心の波が静まる、ひとつの儀式のようなものなのです。
不安というのは、過去か未来にしか存在しない感情なのだ。
「こうだったらどうしよう」「ああすればよかった」
その思考が、心をいまこの瞬間から遠ざけてしまう。
でも、“今”には、ほとんど何も恐れるものは存在しない。
今こうして、美味しいお茶とお菓子がいただける。
静かな時間が流れている。
この感覚こそが、「本当の安心」なのだと思った。
私は今、不動産の仲介という仕事にまっすぐに向き合っている
けれど、ただ物件を売っているわけではない。
一つひとつの物件には、そこで生きてきた人の時間があり、想いがある。
売主様の人生の一部であり、買主様の未来の一部になる場所。
だからこそ私は、
「一期一会の取引を、心から。」
そう胸に刻んで、この仕事と向き合っている。
その出会いが、誰かの人生の大切な節目になることを知っているから。
そして私自身もまた、
自分の人生を、自分で選び続けてきた一人なのだと思う。
人生は、偶然だけで決まるものでもない。
人生は、自分がどう意味づけ、どう選び続けたかで、形づくられていく。
今日も私は、お茶をいれる。
心を整えるために、一杯。